幸福王子

幸福王子大千穐楽おめでとうございます!



舞台が発表された時はほんとに嬉しくて、でもこの状況のなかでほんとに出来るのかな?とも思っていて

キャストの皆さん誰も欠けることなく無事東京千穐楽そして京都大千穐楽を迎えることができ嬉しかったです!!!!!

正直2020年の現場は諦めかけていたのでこの2週間めちゃくちゃ楽しかったです






私は幸福王子の原作を子供向けのまんが昔話みたいな本でしか読んだことがなくて、結末がハッピーエンドかバッドエンドかも覚えていような状態でした。


ただ子供ながらに(それこそ劇中に登場するマッチ売りの少女のように)、「金でおおわれて宝石が着いてる王子様か〜綺麗だな〜」と思っていた事はよく覚えています(ほぼ挿絵の印象ですね)


先に原作を読んでもその解釈は変わらず、そんなに悲しい物語だと感じないまま初日を迎えました。





結局ここまで漠然と幸福王子の物語に抱いていた認識は、観劇を通して見事にひっくり返されました。


以下私が気になった部分、考えた部分を改めてアウトプットしようと思います(外に出さないと消化できない...)



まず前提として私は王子に対し、自己中心的で独善的、その結果破滅した人間だと考える批判的な姿勢を取っています(つまり王子めっちゃ嫌い)。


ゼロサム理論について


これについてはほかの記事でも書きましたが、私は王子とツバメが「いい事」をした結果壊されてしまった・死んでしまったという展開自体が、ゼロサム理論を改めてなぞったものであると考えました。


人間だった頃の王子はここでの「持つ者」で、お城の外の人々は「持たざる者」でした。

ここにおいて1つ目のゼロサム状態が発生しています。

周囲から幸福だと言われていた王子の状況は何万人もの使用人や市民の上に成り立つものだったのです。



死んでから社会にはこのような不公平が蔓延していると気がついた王子は、それを問題視するようになります。

「全員が引き分けることは理論上可能だが、それはあくまで机上の空論に過ぎない」「勝つものがいれば負けるものもある」と説く王子は、自らが考える「いい事」の原理に従って貧しい人々を救おうとしましたが、ここで私が考える2つ目のゼロサム状態が発生します。

王子は自らが持たざる者=(目や服を失う)になることで、持たざる者だった貧乏人を救おうとした(=勝者にしようとした)のです。

ツバメをも巻き込んで自らを損ない人助けをしようとした王子は、結局そのせいで輝きを失い廃棄され、一緒に動いていたツバメもエジプトへ行くタイミングを逃し死んでしまいます。


つまりゼロサムの不公平を睨む王子は、それ故に自らがゼロサムの渦にのまれてしまったのでした。
自己犠牲の上に成り立つ救済行為は、誰かの成功は誰かの失敗状態の再現にすぎなかったのです。

②王子にとっての「幸福」とは何か



「実際、俺は幸福だったのだ。もし快楽を幸福と言うならば。」と王子は劇中で生前の自らの状況について述べており、自分が置かれていた状況は本当の幸福ではないと皮肉っています。


では王子が考える幸福とは果たして何だったのでしょうか。



結論を言うと、王子はその時々によって幸福の定義を変える自己中心的な価値判断の軸を持っている人間だと私は考えました。


王子は死んでから外の世界の様子を知り、快楽を享受するだけの自分は果たして本当に幸福だったのだろうかと疑問を持つようになりましたが、これはかなり傲慢な考え方です。

なぜなら、生きている時には自分の置かれている環境を疑いもしなかったのですから。


周りの悲惨な状況を知ったことでかつての自分と同じような暮らしをする王族を批判し快楽を否定する王子は、ここでも独りよがりな性格を遺憾無く発揮しています。

要は井の中の蛙大海を知らず状態だった人間が外の世界に目を向けた結果、独善的な正義感が暴走してしまったのです。


王子は、快楽は幸福ではなかったと自分だけでは気が付かなかった癖に、他の世界を知ることで勝手に罪悪感を覚え、新たな自己中心的な価値観(=王子の中の原理主義)を生み出したに過ぎません。

つまり自己中心的のループにハマっているだけなのです。


③王子とツバメの間の愛について


正直これに関しては最後まで分かりませんでした。王子はツバメに何もしてあげてないのに、どうしてツバメは王子に尽くすのかなと。



どちらかと言うと愛よりも依存に近いのかなあと私は最終的に考えました。


ツバメはやっぱり、薔薇という恋人と別れ仲間はエジプトへ行ってしまったので、寂しかったのだと思います。
そんな中出会ったこれまた孤独な幸福王子に対しツバメは、孤独の性質が違うとは言えど、どこか似たような境遇にあると感じたのかもしれません。

お互い孤独な中でどちらかと言うと協調性のあるツバメが王子に同調する形で2人は離れられなくなって行ったのです。



私は王子(の考え方)が嫌いなので、ツバメの考え方がどんどん王子寄りになるのが本当に悲しくて。

ツバメは自己中だけど
「なんで人間はお金に換算しないと本当の価値が分からないのだろう」
「宇宙や世界があって自分がいる」
「(王子の上辺だけの行為に対して)そんなの一時しのぎじゃないか」
「誰かの成功は誰かの失敗 本当かなあ」
「みんなが同じくらい勝つ訳にはいかないの?」
と人間ではないツバメらしい純粋な価値観も持ち合わせていました。

王子は俺が世直ししてやるという自分を軸にした考え方だけど、ツバメは純粋故に柔軟でより広い視野を持っていたと言えます。



そんなツバメが最後に「(王子が「いい事をしたな」と満足気に言ったのに対し)いい事ねぇ...そうだね!」と同意してしまったのが本当に本当に悲しくて救いがないなと思いました。

ツバメも結局一緒にいることで王子の理論展開に丸め込まれてしまったのです。






その結果ツバメに訪れたのは自身の死

ここでもツバメは自分が街に残ろうと決めた理由を、王子の目の代わりになることが自分にとって正しいと思うからだ!と言っています。

その口調はどこか誇らしげではあったけど、やっぱり私は寒さに耐えられないことが分かっているツバメはエジプトへ行って欲しかったなあと思いました。

王子にここまで同調していなかったらツバメは早めに街をたつことができ、死ぬことはなかったのにと。


ツバメは王子といる中で王子の考え方に強く影響され、その破滅に巻き込まれてしまったのです。



あ〜〜〜〜〜ツバメはそのままの価値観で王子から早く離れていれば死ぬことはなかったのかなあ...

でも悲しい目をした王子に同情して手伝ったのはツバメの純粋さからだよなあ...


つまるところツバメは愛と依存・同情を勘違いしていただけなのです。

その証拠に王子からツバメへは「愛」があるという決定的な表現はないし、また王子がツバメからの「愛」を受け取った表現もなく、唯一あったのは「ツバメは王子を愛していたのです」という表現だけでした。

純粋で孤独なツバメはその純粋さそして鳥であるがゆえの人間に対する無知さを理由に同じく孤独な王子の境遇に同情し、考え方に同調し、そしてお互いの孤独さ故に依存し、それを愛と勘違いしたと私は考えました。

④物語の中で救われたもの


救いがないこの物語の中で唯一救われたのは、王子が感じていた罪悪感だけです。


王子は根本解決にはならない「良い事」をすることで貧しい人を救った気になり、かつて快楽を享受していた罪悪感を減らしていました。


その過程で自らの体を傷つけ、ツバメを使役し結果死なせてしまうとしても。


王子は自らの自己満足のために自己犠牲そしてツバメの犠牲を払っていたのです。




私は王子のことは嫌いだけれど、神様が永遠の幸せを与えると言って王子が1番忌み嫌う状況(=生前の自分と同じく快楽に甘えられる状況)を再び与えたシーンがあることで、しっかり王子にも救いがない状態になったのはとても良かったと思っていて。

独善的な基準で自己満足な行為をした王子は結局救われなかったのです。

⑤「馬鹿かお前らは!」のお前らとは誰か


1人目は神様

王子は快楽を幸福だと捉えていなかったので、永遠の幸せとして「楽園で神様にお仕えする」ことを与えられたのに対し「貧しき者を知らず楽園で遊んで暮らすことは快楽であり幸福ではないのに、それを幸福だと思っているあんたはバカなのか」と感じ、神様に対して「馬鹿か」と言ったのだと思います。

2人目は観客

これは観客であり観客ではないと私は考えており、正確にはおそらく観客(=資本主義社会に生きる大衆)という立ち位置だと解釈しました。
格差を見て見ぬふりをして快楽を追い求め、遊んで暮らすことが幸せだと考える普遍的な考え方をする人々を批判しているのだと思います。
この言葉を観客に向かって投げかけることで、物語中の大衆の存在を観客を媒介して表出しているのだと感じました。

つまり、観客を通して大衆の姿を描こうとしているのです。






考え事をしていたら眠くなってきました.........というのは置いておいて、考えれば考えるほど泥沼にハマるので一応自分が現段階でアウトプットできるのはこれくらいかなあ。

まだまだ考えられるけどこれ以上いくと深みにハマりそうなので笑


本当に主演のふたりが言うようにとても考えさせられる舞台で、考えることが好きな私にとってはシンプルに楽しかったです






見る人の数だけ解釈があるよね、幸福王子

幸福王子 美しさについて

宝石が無くなり金箔が剥がれ落ちた王子は「芸術は美しくなければ価値がない、なぜなら高値がつかなくなるから。美しさを失った芸術は即刻廃棄されるべき。」と評され、台座から下ろされた後溶鉱炉でとかされます。


何回か観劇する中で私は、これをアイドルが出演する舞台のセリフとして存在する意味を考え始めました。





歌が好き 踊りが好き 声が好き 演技が好き



自担を好きになるきっかけは人さまざまで、中には容姿は全く好みじゃないけど人間性が好きというところで推している人もいると思います。



しかし彼らが所属するのはイケメンばかりが所属するという一般評をもつジャニーズ事務所。ゴリッゴリにルッキズム・美しさがお金に変わるという価値観の上にあるような場所です。


ファンたちも人それぞれではあるけれど、彼らの"美しさ"に価値を見いだしお金を払ってグッズやチケットを買っているわけで。

それ即ち"美しさに価値がある"という状態なわけです。






この考え方は幸福王子の中にある"美しくなければ価値がない"と表裏一体でもあります。

彼らがジャニーズ事務所に所属している以上、容姿というフィルターを完全に取り除いての評価は難しい。

普段から"美しさにお金を払っている"人達が見に来る舞台で、"美しくなければ(金銭的)価値がない"という考え方をアイドル本人たちから提示されるのが、幸福王子という舞台です。

幸福王子 「おやすみ」に対する返事の解釈

私が知っている限りでは10/30夜、レポ見る限りだと他に2・3公演で、ツバメが死ぬ時の「おやすみ」に王子が「おやすみ」と小さな声で返事するようになっていました。

ツバメが「おやすみ」と言ったあと次のシーンに移るまで、余韻というか謎の空白の時間が流れていることもあり、なんで王子は死ぬツバメのおやすみには返事しないんだろうかとずっと思っていて。

それに対する解釈を書いてみようと思います。





王子が死ぬツバメの「おやすみ」に返事をする場合においては、"自分の独善的思考に基づいて行った良い事が最悪の結果を招いてしまったということを、王子が理解した描写になる"と私は考えています。

"いい事"は結果ではなく原理と関わる問題であり、結果が芳しくないとしてもいい事をしない方が悪いことである"というのが物語における王子の主張です。

物語の中で王子がしたい"いい事"にはツバメの協力が必要不可欠であり、王子がいい行いをし続けるためには、寒さが敵なツバメを街に留まらせなければなりませんでした。

では王子が自分の信じる"いい事"をし続けた結果どうなったのか。



そこに待っていたのは、寒さに耐えきれなくなったツバメの死でした。

王子は「結果は偶然に左右される だから原理が重要なんだ」という考え方をしていましたが、その原理自体は極めて自己中心的価値観に基づくものでした。

皮肉にも、主観的な判断で行った行動の帰着として結局王子が重要視してこなかった"結果"が最悪なものになってしまったのです。

幸福王子はツバメに指摘された「独善的で自己中心的」「一時しのぎ」という部分をなんら解決できなかったのでした。




ここでツバメが死ぬ時の「おやすみ」に返事をする場合は、王子が少し自分の行動が自己中心的であったことを理解出来たのかなと私は思います。

ツバメの死は寒さに耐えきれなくなったという自然的な現象でしたが、本来渡り鳥であり冬の間は暖かい場所へ旅立つツバメを引き止めたのは他でもない王子です。

だからこそ死の間際にツバメが放った「おやすみ」に対し、自分の独善的な行動に対する悔やみから「おやすみ」と王子は思わず零してしまっただと感じました。

王子は原理に囚われ結果を軽視する考え方のもろさを、ツバメの死によって見つめ直したのだと思います。






というのはあくまで私の希望的観測で、救いのない幸福王子という物語の中で少しでも王子が自分の自己中さに気がついていたらいいな 救いがあるといいなと思い、この解釈に至りました。

幸福王子 愛が芽生えた瞬間について

幸福王子を何回みても唯一分からないことが「ツバメが王子を愛し始めた瞬間」なんだけど



王子は独善的で自己中心的だし、ツバメを使役するばかり(雨宿りは王子がツバメにしてあげた事じゃない)だし、話はしっかり聞かないし、マイペースだし...

王子を愛するようになった描写も台詞回しも一切なくて、「こんな自己中王子のどこがいいの!?」って何回も思ってしまうんだけど。





それでも宝石はなくなり金箔も剥がれ落ち、芸術の専門家までもが「美しくないから破棄するのが適当である」と言った幸福王子に最後まで唯一寄り添っていたのは、他でもないツバメで。

冒頭で「黄金のベッドルームだ!やっぱり俺は金ピカが大好き!」と派手なギラギラ趣味をハッキリと口に出していたツバメだったんだよなあと。



キラキラしてて俺の趣味だから!という理由だけで王子のところを選んだツバメが、みすぼらしい姿になった王子になおも寄り添い続けたのは、やっぱり愛していたからということでしか説明できないのかなと思ったという話です。

幸福王子 全てはゼロサム

ゼロサム理論と幸福王子



王子が説くゼロサム理論は経済学の考え方で、勝者と敗者のプラスとマイナスを合わせるとゼロになるが、特に富や財産においてみると格差は極めて大きいということを示すものである。

王子は生前ゼロサム理論における勝者の立場におり何不自由なく自由に暮らしていたが、死んでから楽園の外を見るとそこには敗者の世界すなわち貧しい社会が広がっていることに気がつく。

王子は社会に蔓延る不均衡に憤り、それを少しでも良くするため「自分が考える良い事」を原理とし、貧しい者に自らの体に埋め込まれた宝石を与えることによって救済行為を行おうとする。




①王子が考える「救済行為」そのものが、ゼロサム理論上の勝者が考えるやり方であった


王子は富を分配することで貧しい者を救おうとしたが、それは持つ者である王子の施しによる解決案でしかない。

王子の行為からは問題の根本である「貧しい者たちが稼げない社会」の解決には至っておらず、結局貧しい者たちは一時しのぎの救済が効かなくなった後、搾取される立場に逆戻りすることになる。

つまり王子が貧しい者たちに宝石を分け与えたことは、「弱者に分け与えられるだけの富を持っていた王子の、一方的な価値観に基づく施し行為による自己満足」であると言える。

ツバメが指摘した通りゼロサム思考から抜け出せない王子は、独善的で自己中心的な考え方しか出来なかった。




②貧しい者たちに施しをした王子とそれを手伝ったツバメが最終的に終焉を迎えるのは、個人レベルに落とし込んだゼロサム理論の再現である


ゼロサム理論は「誰かの成功は誰かの失敗」という考え方である。誰かの犠牲の上に誰かの幸福は成り立っているのである。

お針子のおばさんにルビーを与えた王子は、柄に入っていた宝石を失う。
脚本家にサファイアの片目をあげた王子は、片目の視力を失う。
マッチ売りの少女にもう片方の目をあげた王子は、ついに両目の視力を失う。
物乞いや貧しい子供たちに自らの体をおおっていた金箔を与えた王子は、寒さを凌ぐ術と唯一無二の輝き、そして物語上の社会における芸術としての価値を失う。

さらに王子は自らの体を犠牲にするばかりではなく、その行為を手伝って貰っていたツバメをも失う。

このように王子はゼロサム理論における社会の不均衡を解消したいと考えていたにも関わらず、自らの価値の喪失とツバメの死という「犠牲」をもって他者を「幸福」にさせたに過ぎず、結局ゼロサム状態からは何ら逃れられていないのである。